2012-12-30

田島弥平旧宅~富岡製糸場と絹産業遺産群~

世界遺産候補、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の一つ、田島弥平旧宅に行ってきました。

田島弥平さんとは1822年に生まれ、幕末から明治にかけて優良な蚕種(蚕の卵)を生産する養蚕技法「清涼育」を完成させ、近代養蚕飼育法の確立を図った人物です。



「清涼育」普及のため、弥平が
考案した養蚕建物「田島弥平
旧宅」がこちら。

空気循環を良くする2階建て、瓦葺、気抜き用の櫓が屋根に付いているのが特徴です。(総櫓)



旧宅の広さは約4000平方 メートル。画像の主屋の他 に種蔵、桑場などが現存し ています。







主屋の東側には新蚕室が
ありましたが、戦後に解体。
現在は、渡り廊下のみが
残っています。








気抜き用の櫓は、この総櫓の他に三ツ櫓、二ツ櫓などがあり、数軒隣りの田島亀夫宅では、三ツ櫓を見ることが出来ます。






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この島村地区はかつて、日本三大蚕種生産地として名を馳せており、田島弥平旧宅の他にも、この建築様式の建物が建ち並び、観光コースになっています。


位置は群馬県伊勢崎市ですが、
観光コースの行程には群馬と
埼玉の県境も通ります。






この群馬県の最南部で蚕種業が栄えたのは、利根川と広瀬川の合流地点に近く、砂室土に恵まれた事と、通船による運搬が容易だった事があげられます。(今でも近くには舟の県道と呼ばれる、島村渡船が残っています。)


田島弥平は、蚕種の輸出も横浜の商人任せにせず、4回もイタリアのミラノなどヨーロッパへ出向き、直輸出もしていました。また、天皇家に宮中養蚕の指導も行っていました。



最後まで蚕種製造を続けていた島村蚕種株式会社も、昭和62年に閉鎖され、会社跡地には碑が残るのみとなっています。





高崎市育ちの私が小学生だった頃は、通学路には沢山の桑の木が植えられていました。養蚕業の衰退と共に、あの緑の光景が見られなくなってしまったのは、寂しい限りです。



島村の田島弥平旧宅の
近くには、小さな見本桑園
があり、蚕のエサとなる
桑の木を久しぶりに
見る事ができました。





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category富岡製糸場と絹産業遺産群  time15:37  authorbwt10576 

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