2004-12-18

プーチンがまだKGB職員だった頃 by tetsushi

赤の広場の赤は、共産主義を意味するのではなく「美しい」という意味だそうだ。

赤の広場は、天安門広場ほど広くはないが、
周りを囲む建物がたいそうご立派で、美しさと迫力はある。

クレムリンを正面にして、手前にレーニン廟、左手に聖ワシリー寺院、
右手に国立歴史博物館と錚錚たる建物に取り囲まれている。

そんなモスクワ随一の観光地は、
ソ連が崩壊する前夜の混沌とした状況だったということもあり、
観光客以外にもKGB、マフィア、物売り
(お前もその一人だろうと言われれば、そうなのかも知れないが・・・)
などが入り乱れていると言われていた。
確かに、広場では平日だというのに大の男達が、
何をするともなく、ぼうっと突っ立っている姿が目立っていた。

モスクワ
◆クレムリン

暇な私は、そういう人々をウォッチし、
どれがKGBで、どれがマフィアか、適当な結論を導き出した。

ただの市民レベルの物売りは、
物々交換を求め、それ目的の私達のような観光客を探し、
商売を終えると街へ消えて行った。

マフィアがらみの物売りは組織で動くので、
物売り本人とは別で、常にそれを遠くで見つめる視線が付きまとっていた。
物売りが商売を終えると、一旦その男の元へ戻り、水揚げを渡し、
また新たな品を持って違う観光客に声をかけていたので、
これはマフィアに違いないと思った。

KGB職員は、高圧的な鋭い視線で、
にらみを利かせてうろついていたあいつらに間違いないだろう。

これらは勝手な想像ではあったが、数日間過ごせば、顔を覚えるまでになり、
まあそれなりに当たっていたのではないかとも思う。

こんな楽しい人間ウォッチングも当時のソ連は私に提供してくれたのであった。

モスクワ
◆聖ワシリー寺院

2004-12-15

レーニン廟の遺体は蝋人形だという噂 by tetsushi

クレムリンの前にレーニン廟はある。
レーニンはソビエト連邦を建国した人で、死後、神格化され、ここに祭られた。
レーニン廟は、1993年まで、衛兵が警護をするほどの聖地とも言える場所で
あったのたが、1994年以降、衛兵は撤収させられてしまった。
理由は、ソ連が崩壊してレーニンの各付けが下がったことによる。

私が訪れたこの時代、ソ連のモスクワを観光するにあたって、衛兵交代は最も
人気のあるイベントであった。

衛兵は1時間ごとに交代するのだが、クレムリンに向かって左手にある深紅の塔
スパスカヤから現れ、レーニン廟でマジックのように一瞬にして入れ代わる。
この入れ替わりのすばやさは噂で聞いていたので、その瞬間を写真に収めようと
したが、その神業ともいえる動きはカメラで追うことができなかった。
次の交代のチャンスを待って、再度チャレンジしようかとも考えたが、その日の
モスクワの気温はマイナス10度と極寒であり、じっとしたまま1時間も待つの
は苦しみ以外の何物でもないので、結局あきらめたのだった。

モスクワ・赤の広場

レーニン廟には、レーニンの遺体が安置されている。
遺体は消毒保存処理が施してあり、眠っているかのように見える。
死してなお、国のために働いていると思うと気の毒でもある。
それに、ソ連の建国者であった偉大な指導者が、今ではロシアを訪れる観光客の
ための見世物になっていることも、何とも皮肉な結末だとも思える。

さて、このご遺体であるが、当時、実は蝋人形ではないかと言う噂があった。
確かに廟内のレーニンは、その後ロンドンのマダムタッソーで見た吉田茂などの
蝋人形とほとんど同じように思えたが・・・
真相はどうなのか?

モスクワ・赤の広場

2004-12-12

ジェルジンスキー像が夜にKGBを向くという噂 by tetsushi

一昔前の日本では「地震、カミナリ、火事、おやじ」が怖い物の代名詞だったが、
この時期のソ連では「地震、カミナリ、火事、KGB」と言うべきだろう。
KGBは権力者にとって都合の悪いものを取り締まる組織として勢力を誇った。
ソ連邦が崩壊するまで、本部はモスクワにあった。

私はそこをどうしても写真に収めたかった。
しかし、KGB本部を写真撮影することは禁じられており、特に外国人は注意深く
監視されていたので、現場をうろつきながらシャッターチャンスを伺った。

モスクワ・KGB
◆ジェルジンスキー元全ロシア非常委員会(KGBの前身)長官像
※ルビヤンカ広場(KGB本部前)にて、警備を気にしながら盗撮する。

本部前に初代長官ジェルジンスキーの胴像があり、泣く子も黙る処刑執行権を
持っていた人物だったが、このジェルジンスキーでさえKGBにいつ殺されるか
という不安を抱えていたため、この胴像は、夜になるとKGB本部の建物の方を
向き直って逆に監視しなければならない、とも皮肉られていた。

胴像は1991年に壊されて、今はこの勇姿?を見ることはできない。

モスクワ・KGB
◆1991年8月23日、朝日新聞夕刊にて撤去される写真が掲載された

2004-12-09

ソ連で「マールボロ長者」になった話 by tetsushi

ペレストロイカ真只中のモスクワは、異様な雰囲気に雑然としていた。

赤の広場周辺には、外国人観光客から外貨や西側外国製品を得ようとする輩達が、
あちこちで様子を伺っていた。
当時のソ連では、特権階級以外のプロレタリアートは、外貨や西側諸国の製品を
簡単には持つことができなかった。
私はソ連へ行くにあたって多くの西側諸国の物を携えて入国することにした。
特に役立ったのは、アメリカタバコの「マールボロ」であった。

国境を接していた米ソは長く対立し、軍事力においてはソ連もアメリカに引けを
取らない進化を遂げていたが、庶民の生活はそっちのけにされ、日常品などの
“物レベル”においては、アメリカ製品がソ連製品を圧倒していた。

モスクワ・赤の広場
◆赤の広場で交渉する私の友人

タバコはマールボロでなければ価値は半減する。
マイルドセブン等の日本たばこでは、ソ連製タバコとさほど変わらなかった。
マールボロは、大学のゼミでロシア研究を専攻していた、ソ連マニアの友人の為
のソ連グッズ収集に役立った。
日本で200円そこそこのタバコが、みるみるうちにソ連製の時計やロシア帽に
変わって行く様は、手品か魔法のようだった。
一度、町中で商売を始めたら、次から次へと我々の元へ人がやって来た。
交換は1箱ごとではなく、1本1本バラでの交換なので、品物は豊富に揃った。
時計も1種類ではなく、シベリア鉄道職員専用の時計などもあったし、レーニン
バッジや本当かどうか疑わしかったがマンモスの化石の一部というものもあった。

一度ソ連で買った他のタバコをマールボロの箱に詰め、それとなく売ってみたが、
交渉中にバレてしまった。しかし、それに感心した輩が、我々のそのアイデアを、
マールボロの空箱と一緒にマトリョーシカと交換してくれた。
その後、この空箱はどのくらいの人達の手に渡り継がれたのだろうか。

モスクワ・マトリョーシカ
◆マールボロの空箱と交換した、歴代書記長のマトリョーシカ
※写真左からゴルバチョフ、ブレジネフ、フルシチョフ、スターリン、レーニン

2004-12-07

ソ連の行列は看板代わり? by tetsushi

日本を出発する前、ニュースでは連日の様にモスクワのモノ不足を伝えて
いたので、万一の食糧難に備えてカップヌードルや缶詰などを持参した。

しかし、実際行ってみると、モスクワにはモノが溢れかえっていた。
ホテルの朝食では、黒パンやスクランブルエッグ、バター、ベーコン、牛乳、
ジュースなどがずらっと並べられ、想像とのあまりの違いに拍子が抜けた。
街角では、ドラム缶ほどの大きさのお釜?いっぱいに詰め込まれた揚げ
たてのピロシキが売られており、15分ほど並べば購入することができた。
また、古ぼけたコンテナ風のキオスクが並ぶ一画では、炭酸水や粉ジュース
などのドリンクの類も販売されていた。
街のレストランでも、ジャガイモのいっぱい入ったボルシチを格安でたらふく
食べることができた。

インフレによって生活必需品が一般家庭にうまく流通しなかったことが、
モノ不足と言うような報道のされ方になっていた。
しかしソ連国民が今まで経験したことの無い自由市場での取り引きでは、
庶民が生活必需品を手にする迄に、長い行列を作らなければならなかった。

ロシア モスクワ
モスクワの自由市場に並ぶ人々
※街には看板がないので、行列を見て、そこに店があると判断した。

街ではドルショップとルーブルショップとに分かれ、通貨の種類で購入できる
品物が違った。
ドルショップにはマルボロ、キャメルなどの西洋タバコ、化粧品などが美しく
陳列されていたが、ルーブルショップでは、タバコは2種類、化粧品等は色の
種類はあるが、パッケージは全く同じで、山積みにされてドサッと置かれてい
るだけであった。
国営百貨店に入ったばかりのベネトンショップでは、パスポートを求められた。
ベネトンでは、ドルしか使用できない、事実上外国人専用の店になっていた。
このように、モスクワの中の外国は、あちこちにあった。

モスクワを代表する国営百貨店内にある店で、ベネトンショップ以外に活気が
あったのは、アイスクリーム屋だけであった。
ここは、庶民にとって数少ない “食べる楽しみ” を与えてくれる店であるらしく、
またしても長~い行列ができていたが、それ以外の店は見える所に店員が
立っている訳でも、看板が出ている訳でもなかったので、どの店が開店中で、
どの店が閉店しているのかさえ、すぐに見分けることが出来なかった。

民芸品を売る店を覗き込んだところ、奥には私を見ても表情も変えない店員が
どかっと座っており、どちらが民芸品なのか分からないほどであった。

ロシア モスクワ
グム百貨店でアイスクリーム屋に並ぶ人々
※赤の広場前にある国営百貨店。建物は非常に荘厳であった。

2004-12-05

インフレの藻屑と消えた5カペイカ by tetsushi

ホテルの部屋に入ったすぐ後で、ノックする音が聞こえた。
開けてみると、その階を担当する案内スタッフの女性が立っていた。
ホテルには、各階のエレベーター前に案内職員の座るデスクが設置されており、
表向きは観光案内、ホテル案内、両替等が行われていた。
これらの業務は、私が知る限りロビー階にいるコンシェルジュがまとめて行う
仕事だと認識していたのだが、ソ連では、社会主義国家として国民全員に
仕事を与える為には多くの仕事を作らなければならないのである、とも、
我々の監視役を兼ねているのだ、とも、ホテルに泊まる外国人の間では、
色んな憶測が囁かれていた。

その女性の両手には多くのルーブル紙幣がにぎられていた。
ソ連では珍しくないヤミ両替である。
100ルーブルと10ドルを交換してほしいということだった。
モスクワは観光客用に多くの外貨ショップがあったが、ローカル店では、
ルーブルが必要不可欠であった為300ルーブルほど両替を頼む事にした。
この様な両替を求める人は、街の至る所にいたので、もはやヤミではなく、
これこそがソ連の ”オモテ” だったのだ。

ロシア モスクワ
モスクワ川から望むロシアホテル
※ロシア最大のホテル。近い将来、解体されることが決定した。

当時、ルーブルの公定レートは、1ルーブルが約300円で、市民の
平均給与は約350ルーブルほどだったのだが、ヤミ両替は当たり前の
ようにあちこちで行われており、数年後のソ連崩壊と共に顕在化される
通貨バブルは、既にこのころから始まっていたので、実際の市民生活は
平均給与に到底見合うものではなかった。
1年後、このインフレは、1ルーブルが1円まで下落することになる。

ロシアではルーブルの下にカペイカという補助通貨があり、100カペイカで
1ルーブルとなっている。
当時、地下鉄へ乗車する際、5カペイカをそのまま改札口に入れるとバーが
開く仕組みになっており、切符を購入する必要がなく便利な代物でもあった。
(因みに5カペイカは実勢レートでは1円にも満たなかった。脅威の安さだ!)
そして、カペイカは小銭なので、何を買うにしても、おつりとしても、普通に
よく使用されていたが、インフレに対する政府の措置としてのデノミにより、
一時的にモスクワから消えてしまった。

現在は、レートも落ち着き復活を果たしたが、5カペイカはほとんど使用
されることはなく、日本で言うところの「銭」のような存在となりつつある。

ロシア モスクワ
モスクワ川から望むクレムリン宮殿
※ソ連政府のペレストロイカは、自由と同時に大きなインフレをもたらした。

2004-12-03

ソ連で行列のできる高級レストラン by tetsushi

空港内は薄暗く、社会主義国家であるがゆえ、宣伝広告など何一つ無かった。
空港にたむろする人々の表情は、寒さのせいか厳しく思えた。
ただでさえ体躯のいい人々は、着膨れしているせいでヒグマのように見えた。
そのヒグマ達は、タクシー、タクシー、と白タクを勧めてくれたが、残念ながら
私にはドライバー兼通訳が手配されていたので、その通訳を探すしかなかった。

空港の外に出、外気を吸い込んだ瞬間、あまりの冷たさに噎せて咳き込んだ。
出迎えてくれた、その辺りのヒグマ達より一回り大きく、目つきの鋭い通訳は、
「昨日からモスクワに寒波が来ており、今晩は氷点下30度にまで冷え込むだろう」
と教えてくれた。
ソ連は、国営旅行社の「インツーリスト」を通さなければ入国することができず、
インツーリストはKGBの傘下に置かれていたので、この通訳は、まさしくKGB
の雇われでもあると共に、私が入国してから出国するまでの監視役でもあった。

ロシア モスクワ
モスクワ川と市街
※この日、昼間でもマイナス10度ほどの寒さだった。

極寒のモスクワの街は美しい。
雪と氷に覆われて幻想的であった。
また、社会主義政策を取っている為、街にはネオンや広告が一切無いという
風景が、日本人の私にとっては、より幻想的に映った。
看板があったとしても、それは「カフェ」、「くすり」、「地下鉄」などの販売品や
案内を示す、あくまでも ”サイン” であって、広告はほとんど無かった。
ほとんど無かったが、少しはあった。

ホテルの受付は「あなたも新しくできたレストランへ行くの?」と聞いてきた。
なぜ、そんなことを確認するのだろうか不思議に思った。
「あなたの国ではそのレストランは有名でしょ?」
あまりに勧めるので、そのレストランへ行ってみると、なんと “レストラン” とは、
マクドナルドのことであった。
私が日本からの客だったので、勧めてくれたのだが、マクドナルドとは・・・
当時マクドナルドは、オープンしたばかりで、モスクワでは ”レストラン” と
呼ばれ、西側からやってきた、高級レストランとして位置づけられていた。

ここだけは、「M」の看板を掲げていた。
マクドナルドは、毎日長蛇の列ができるほどの大人気であると同時に、
サービス業というものを経験したことのないスタッフはとてつもなく手際が悪く、
それが更に数百メートルほど列を伸ばすのに貢献していたのだった。

ロシア モスクワ
モスクワ市内 ゴーリキ通り周辺
※ポケットの中の目薬とウェットティッシュは、凍って役に立たなかった。

2004-12-01

ソ連で奪い取った入国スタンプ by tetsushi

ロシアが「ソビエト連邦」と呼ばれていた頃、私はモスクワを訪れた。
この時代のソ連は、ペレストロイカが進んではいたものの、まだまだアメリカと
世界を二分するほどの東側社会主義国家であった。

長い入国審査が終わり、ビザに入国スタンプが押されたその瞬間、私はパッと
係員からビザを取り上げ、インクが乾ききる前に、直ぐ様パスポートへ押し付けて
ソ連入国の証を残した。
当時、ソ連の国策で、万一旅行者に何かあった場合に、知らないふりをする為、
西側外国人が入国した証拠が残らぬよう、パスポートには直接スタンプを押さず、
別冊になっているビザに押すのだ、と噂されていたからだ。

ロシア モスクワ
シェレメチボⅡ空港に待機するイリューシン62
※今、アエロフロート航空の国際線でこの機体は利用されていない。

その入国スタンプが押されるまで、しばし係員の青年と問答が続いた。
係員は、質問を終えると顔を近づけ「タバコは持っているか?」とささやいた。
私は持っていたのだが、ここで入国させてもらえないような事態に陥ったのなら
ともかく、見返り無しに上納するのもいやだったので、「ニェート」と首を横に振った。
係員は「くそっ!」というような顔をして私の審査を終えた。
入国審査で係員にタバコをねだられたのは、古今東西、この一度だけである。

ロシア モスクワ
空港とモスクワ市内を結ぶ幹線道路
※当時、ペレストロイカの影響で外国企業の看板が増えたらしい。