2006-06-22

フェラーリに“跳ね馬”を授けた男の故郷 ~ルーゴ(エミリア・ロマーニャ州)~

先日、とある「ワインの夕べ」と題したワイン&郷土料理を満喫できると言う、とっても嬉しい会に招待され、LUGO(ルーゴ)という街に行ってきた。ボローニャからラヴェンナ方面に向かい、車で1時間くらいのところに位置している。

日本人らしく、開始時間の30分前にルーゴの街の中心にあるホテルの会場に着いた私は、イタリアでは当然のことだが、まだ誰一人として来場していない時間に着いてしまったので、手持ち無沙汰になって、街をぶらぶら歩くことにした。なにしろ、初めて訪れる街で、興味もあった。
そして今の季節、午後8時すぎというのは、まだまだ明るい。
街の中心地広場らしきところに入った途端、高くそびえるモニュメントが!そしてそこには、なんだかとても見覚えのあるマーク!

「あっ、これフェラーリのシンボルマークの跳ね馬だ!」と思ったとたんに、そのモニュメントの前には、なんだかずんぐりむっくりの男の人の銅像があるのも見つけた。しっかもかなり大きくて、なんだか周りの風景に合っているような、合っていないような・・である。

「なに、このモニュメントと銅像は?」と思った私は、のんびり自転車で横切るおじさんに、「この人だぁれ?」と旅行者風に尋ねてみた。そのおじさんは、一言「フランチェスコ・バラッカだよ!」と、あったり前じゃん、そんなことも知らないのかって感じで答えてくれた。「あー、そうだ、跳ね馬と言えば、フランチェスコ・バラッカだ!」と、そういわれてみれば当然だとハタと気づいた。
フランチェスコ・バラッカとは、日本ではあまり知られてはいないと思うが、イタリアではたいそう有名で、「撃墜王」と呼ばれた、第一次世界大戦時のイタリア空軍の戦闘機パイロットで、その時代のヒーローであった。そして、もともと、今のフェラーリのシンボルとなって、世界でも知らない人はいない、あの「跳ね馬」のマークは、そのフランチェスコ・バラッカの戦闘機に彼のシンボルとして付けられていたものである。そして、彼の死後ではあるが、彼の両親が見ていたラヴェンナのサーキットで、驚異的な勇敢さをもってレースに大勝利した、当時アルファロメオのレーシング・ドライバーだった若きエンツォ・フェラーリに、「このエンブレムを受け継ぐのにふさわしいのは、この勇気ある若者しかいない」と、バラッカの両親である老夫婦が、この跳ね馬のシンボルを授けたという伝説となっている。
この伝説に関しては、フェラーリ博物館の中にも、語られているが、そこにある写真では、フランチェスコ・バラッカはもっとスリムで颯爽としていて、こんなにずんぐりとした体型ではなかったのだが??
なにげなく訪れた街、ルーゴ。そうかぁ、ここは、フランチェスコ・バラッカの故郷なんだ・・・と、なんだか得した気分になった。どの土地に言っても、いろんなストーリがあるものである。フェラーリファンの方は、この「跳ね馬」のモニュメントと、バラッカの銅像詣でに来るのも、“ツウ”っぽくて、面白いかもね。
ちなみに、その後“ワインの夕べ”に戻ったが、午後8時半開始のはずなのに、なんだかんだで始まったのは、もう10時近くだった・・・あいかわらず、イタリアらしい。待たされた甲斐もあって、美味しいエミリア・ロマーニャのワインとお料理を十分に堪能し、隣のテーブルに出席していた、ルーゴの市長さんとも写真をパチリ!

美味しくワインに酔いしれながら、フランチェスコ・バラッカが、世界的に有名になった、あの「跳ね馬」を付けたフェラーリを見たらなんと思うだろうか・・・と思いをめぐらせた、ルーゴの夜だった。


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2006-06-09

ラヴェンナのお薦めランチ見っけ! ~ラヴェンナ(エミリア・ロマーニャ州)~

先週末は、祝日と重なって3連休であった。それで中日の土曜日に、ラヴェンナに行ってきた。言わずと知れた、「モザイク芸術の都」である。これほど素晴らしく保存状態のよいモザイク芸術を拝むことができるところは、世界でもラヴェンナが一番、ビザンチン文化発祥の地であるビザンチン帝国の首都のコンスタンチノープル(現イスタンブール)にも、これほどのモザイク芸術は残っていないのである。ラヴェンナを訪れるのは、これで5回目。ボローニャから、車でも電車でも、1時間半もあればいけるという近さから、週末の日帰り小旅行を過ごすにはぴったりの街である。

そして、同じ見所ばかりを観光する。5回目だけど、素晴らしいモザイク芸術は、何度見ても息を飲む美しさで、圧倒される。飽きない。やはりなんと言っても、「サン・ヴィターレ教会」の豪壮華麗なモザイクは必見だ。同じ敷地内にある「ガッラ・プラチーディア廟」とあわせ、私の中では、勝手にこの二つはラヴェンナの「金閣寺・銀閣寺」と位置づけられている。


ラヴェンナは、先日訪れたマントヴァと違って、さすがに観光客も多い。

さて、この素晴らしいモザイク芸術は是非、皆様ご自身の目で確かめていただくとして、今回は、やっと見つけたラヴェンナでのランチにぴったりのレストランをご紹介します。
毎回、日帰りでラヴェンナに行くので、ランチはそこで、ということになる。せっかくよその地方に行くので、やっぱりその土地の料理を食べたい。といっても同じエミリア・ロマーニャ州だが、ラヴェンナ料理は、「ロマーニャ料理」と言われ、ボローニャ料理とは違う。でも、お昼からちゃんとしたリストランテであんまり仰々しく食べるのは、その後の散策にも差し支えるし、値段も張る。リーズナブルだけど、「ロマーニャ料理」を手軽に堪能したかった私だが、これまではなかなかこれと言うところが見つからなかったのだが、今回ようやくめぐりあった。
「リストランテ VECCHIA RAVENNA da Mario」
(Via Pasolini 41,-tel 0544-215135、日曜休)

ランチ・メニュー13ユーロ。ロマーニャ地方特産の、ピアディーナ(パンの一種)から始まり、ボリュームたっぷりのプリモは、ラザーニャや、生ハムとルッコラのパスタや、やはりこの地特産のカッペレッティと呼ばれる詰め物のパスタなどから選択でき、セコンドは、タリアータと呼ばれる牛ロースのタタキみたいな感じのものや、チーズの生ハム巻きやら、お肉のローストミックスやら・・こちらもボリュームたっぷり。とうてい全部は食べられない。コントルノ(付け合せの野菜)は、これのどこが付け合せ?と思わせるボリュームで、私はポテトのローズマリー焼きというものにしたが、皿一杯にこれが出てきた。この一皿だけでもランチとして十分なくらい。でもこれがまた美味しい!そして、ワイン1/4リットルと、お水、さらに食後のカフェが付いてくる。これで、13ユーロである。
量が多すぎることが玉に傷だけど、イタリア人に言わせれば、お皿をきれに全部片付けると、「あら、量が足りなかったのかしら?」と返って心配に思われることもあるようなので、残しても全く心配はない!(らしい)。日本人だと、どうしても礼儀として残したくないって思うのだが、こういう考えもあるようなので、まあイタリアでは、残してもそんなに気にしないで下さい。っていうか、こんな量、絶対全部は食べられたものではない。
その後の散策は、当然もうかなりペースダウン。お腹が重すぎたのだ。もっと調整するべきだった・・・でも満足だった。次回からはここでランチで決まり!
 皆様も、ラヴェンナでランチの機会があったら、是非お試しくださいませ!
続きがあります

2006-06-04

「麗しのマントヴァ公」のおもかげ ~マントヴァ(ロンバルディア州)~

先日、ちょいと用事があって、Mantova(マントヴァ)に立ち寄った、というより仕方なく寄ることになってしまった。私にとってマントヴァは、実は「ちょいと寄る」という対象の所ではない。ルネサンス時期の物語や小説好き(といってもほとんど塩野七生さんもの)な私としては、このマントヴァはかなり重要な都市で、じっくりと腰をすえて訪れたい場所のひとつであった。決してちょっと寄って見るという場所ではなかったのである。しかも、ちょっと寄ることになってしまったので、なんとカメラすら持っておらず、ここに画像を載せられないのが本当に残念!
マントヴァといえば、ルネサンスの時代には、イタリアにおける5大強国(ローマ法王庁、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国)に次ぐ、中小国群のひとつで、そしてその中でも筆頭といえるフェッラーラより、その教養の高さからルネサンス史上最高の女性ともうたわれた、かのイザベッラ・デステがフランチェスコ・ゴンザーガに嫁いで来たところでもある。このイザベッラのもと、北イタリアにおけるルネサンス文化の中心として、大輪の花を咲かせたところであり、現在ではヴェルディの「リゴレット」の舞台の街としても知られているところである。
私は、今この現在のイタリアよりも、住んでみたかったなと思うところがいくつかあり、例えば栄華を極めた頃のヴェネツィア共和国や、このイザベッラ・デステとその夫であるフランチェスコ・ゴンザーガが統治していたマントヴァもそのひとつである。名君が存在し、文化の香りがあふれていた時代というのは、どんなにか素晴らしいだろうと思うのである。
そして、このマントヴァを訪れて、実は“ある人”に会いたかったのだ。そう、とても高貴な方・・・と言っても、もうこの世には居ない。その人とは、歴代のマントヴァ公爵の一人の、「ヴィンツェンツォ・ゴンザーガ」である。
私は、ある街を訪れるときには、その土地のガイドブックを読んでいくより、ある程度史実に基づいた、その街に関する小説を読んでから行くのが好きだし、面白いと思っている。専門家がやたら解釈をつけているガイドブックを読んでも、はっきり言ってなんだかよく分からないことも多いし、ロマン?に浸れない。それに比べて小説などを読んでいくと、興味の対象がグンと増え、勝手な想像をめぐらせながら、とーっても楽しく、興味深く観光が出来るのである。これが、私の旅行を数倍楽しくさせるひとつの方法である。
そして、この「ヴィンツェンツォ・ゴンザーガ」だが、これも塩野さんの小説に出てくる人(しかも主人公ではない)なのだが、とても憎めない人で、また彼に対する描写に、「・・・これほどの美男の若者がいたとは想像もしていなかった。すらりとのびた若々しい身体、ふさふさと肩までとどく金髪の巻き毛、流行の細い口ひげの下のくったくのない微笑み」という所があり、それを想像したときに、正に私の想像する王子様像とぴったり一致したことから、勝手にファンだったのである。(ご興味ある方は、是非、塩野七生さんの「愛の年代記」をご一読くださいませ。)
マントヴァの、それは立派な「ドゥカーレ宮殿」には、ゴンザーガ家歴代の公爵の肖像画があるというではないか。私は、マントヴァに行ったなら、是非このヴィンツェンツォの肖像画に会いに行こうと楽しみにしていた次第である。
そういうわけで、マントヴァという街には、それなりの準備、心構えをして、ゆっくりと訪れるべきところであった。そして、期せずして思わず訪れてしまったマントヴァ。まあ、街の名所・見所は、皆様に直に見ていただくことを願ってここでは触れないが、印象としては、まさに中世に「タイムスリップ」するような感覚に陥ることができる街である。ゴンザーガ家が栄華を極め、イザベッラ・デステがいた時代と街の風景自体はそんなに変わっていないだろうな・・と思わせる佇まいである。
今回は、もちろんゆっくりと「ドゥカーレ宮殿」を見学することもできず、私の「麗しのマントヴァ公」を拝むことはできなかった。またあらためてゆっくりと行くことにしよう。でも実際に彼の肖像画があって・・・それが・・・と思うとなんだかドキドキものである。すごーく見たいけど、なんだか見るのも怖いような・・・とにかく、次回マントヴァを訪れるときまでこの楽しみは取っておけると、ちょっとホッとしたりもした。私の「麗しのマントヴァ公」のおもかげを求める旅はまだまだ続く。
追伸、マントヴァにいかれたら、ガイドブックにはほとんど載っていませんが、是非「TEATRO BIBIENA」(Via Accademia, 47)を訪れてみてください。小さいながら、とっても素敵な造りの劇場で、2ユーロで入場見学できます。マントヴァの街の文化のクオリティーの高さが感じられる趣ある劇場です。
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