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2005-09-29

海外旅行保険はほんとに必要?(最終回)

今まで下がっても7度少しあった熱が、パリに来てからずっと平熱に下がっていた。 太ももの紫斑も少しずつ薄くなってきている。美味しい食事にありつけたからだろうか?

その日の午後、日本人とフランス人ドクターが入ってきて「骨髄検査の結果がでたよ」とまた白い紙を持ってきた。
「検査の結果、あなたの骨髄には異常はありません。」
ドクターはそういってニコッと笑った。
「異常なし? じゃあなんで血小板と白血球が減ってるの?」
「あなたトルコで点滴受けてたでしょ、あの点滴の中にダラシンという抗生物質が入ってて、それがあたなの身体の中でアレルギー反応を起こして血小板と白血球を壊していってたの。」
ちょっとややこしい話で、ボクはすぐには理解できなかった。
「簡単に言うと、熱を下げるために受けてた点滴があなたの血小板と白血球を潰していってたわけ。日本では点滴する前にアレルギーチェックするけど、外国ではあまりしないからね。」
以前、日本で点滴したことがあるが、確かに点滴を打つ前に皮膚にフプチっと針をさしていた。
「じゃあ、あのままトルコに入院していたら死んでた?」
「そりゃあいくら輸血しても壊していってるんじゃ何にもならないからね。ここに来てなければ2,3日ってところだったんじゃない。急性紫斑血小板減少症っていう病気よ。」
「くそ!あの野郎!」
ボクはあの浅黒いトルコのドクターを思い浮かべていた。
「じゃあ骨髄に異常がないってことは、このまましばらくすると血小板も白血球も増えてくるんですよね?」
「そうね、もうだいぶ増えてきてますよ。脚の紫斑が消えてきてるでしょ。」
「じゃあこのまま旅を続けられますね?」
「それはダメですよ、お母さんと一緒に日本に帰りなさい。」
ドクターは手を横に振って「だめだめ」と言っていた。母親も「そうそう」とうなずいている。

その日の夜、日本にいる父親から電話がかかってきた。
骨髄に異常がなかったのでこのまま旅を続けたいというと
「おまえ、もうそこまでやったら日本帰ってこないとダメだ!」
とかなり激怒していた。
でもボクはここで旅をやめるわけにはいかない。その日の夜にドクターにお願いした。
「ドクター、ボクの骨髄に異常ないんならあとは大丈夫だよね。旅を続けられると母親に言ってくれ。」
その後、何度となくドクターに頼み込み、二つの条件をのむということで旅を続けてもいいとOKをもらった。
一つ目の条件は、一ヵ月後にどこからでもいいから血液検査をしてその結果をFAXで送ること。二つ目は今度7度5分以上の熱がでたら必ず病院へ行くこと。
「パスポートの後ろにでもダラシン・ショックって書いときなさい。事故とかの時にわからずにまた点滴されるかもしれませんからね。」
ボクは「ありがとう」と彼女に礼を言って、母親が持ってきたインスタントの日本食をプレゼントした。

アメリカン・ホスピタルを退院したボクは母親が泊まっているホテルに移った。部屋には保険会社の人が持ってきたという大きなフルーツがおいてある。母親にはせっかくパリまで来たのだから、パリ見物でもして帰ったらと言ったが、とてもそんな気持ちにはなれないと早々に帰国した。

結局今回のことは熱を下げるために打った点滴が仇となったかたちだった。あのままトルコの病院に入院していたらほんとに死んでいた。
後で聞いた話だが、パリの病院が1泊10万円で一週間入院、それに骨髄検査。トルコの病院はいくらかわからないけど一週間入院と輸血。それからトルコからパリへのフライト代がなんと300万円! それプラス母親のパリ往復チケットが50万円とホテル代が4泊分。ボクは600万円までOKの保険に入っていたのだか、大方使ってしまったんじゃないだろうか?
もし保険に入ってなかったら300万なんてフライト代出せるわけもなく、きっとトルコで死んでたに違いない。やっぱり海外旅行保険には入っておかないとダメだ。入っててよかったとつくづく思った。
ちなみにもしトルコから日本に飛行機飛ばしてたら2000万だったそうだ。恐ろしい!

その後ボクはパリからヨーロッパ、北米、中南米、アジアとまわり、旅はまだまだ続いた。結局帰国したのはパリでの入院から2年半後だった。
authorshusa  linkLink  comment0 
categoryスナフの旅  time10:17

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