2006-04-09

異教の地で思うこと

去年の春 4月はじめに日本へ帰国した際、
桜咲く中、実家近くの高麗神社へ訪れた。
毎日の安全、健康祈願のために。
そう、自然あふれる神社の境内を歩くのが好きだ。
とても心が落ち着き、満開の桜がまた一段と美しかった記憶がある。
3月に行ったときには、梅の花が咲いていたし、
秋には紅葉、冬には、落葉した木々に数々のおみくじが結ばれ
新年明けらしい光景が楽しめる。

私の実家 (埼玉県日高市) にある高麗(こま)神社。出世の神様としてとても有名な神社で、政治家や企業経営者たちが都内かわわざわざ名刺を持参し
お参りに来られる。
初詣時期には、2ー3日、神社への細い1本の田舎道は都内各地からの車で渋滞に陥る。
【高麗神社 HP】

http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/

私も参拝するといえば、この地元の高麗神社に出かけていた。
ところが20代 結婚を意識する年代あたりから、ぱったり行かなくなった。
結婚する予定が全くないのも、、、この仕事、出世の神様のところ
ばかりお参りにきているせいだ。
出世こそしていないけれど、残業残業で仕事ばかりの生活が続くのは
この神様のせいだ!!!と勝手に逆恨みしたのであった。
(なんと身勝手な、、と今は大反省、神様、ごめんなさ?い!!!
でも当時は真剣にそう思っていた。)

西洋文化にあこがれた10代、20代は、キリスト教にファッション性
さえも感じ、単純にあこがれた。
中学、高校時代は 、米人牧師さんから英語を学ぶため、教会の英語聖書
クラスという会にも週に一度参加していた。
仕事がら、世界各国の有名な教会や、イスラム寺院、ヒンズー教の祭壇
など訪問する機会も多く、人々が全身で祈りを捧げる神の家に足を踏みいれる
だけで、その宗教の知識がなくとも、心から感動し、
絶対的な意味をもつ各国での宗教の偉大さを身をもって感じてきた。
あまりにも神聖すぎて、異質の世界に吸い込まれそうな、
そんな恐怖感さえ感じることも多々あった。
反面、はっきりとした宗教感がない我が国を恥ずかしいと思ったりしたものだ。

よく、日本人は信仰心が薄いとか、外国人の前で 無神論者などと
公言したりする。
お宮参りや 七五三は神前で、結婚式はキリスト教で、
お葬式は仏教でと、自笑的に説明されている。
私自身も、宗教という分野ではいつも答えに困っていた。
こちらにいると必ず、宗教について問われ、書類にも必ず記入する欄がある。
無宗教なんて書くと、変に思われるし、めんどうなので仏教徒と答えているが、
これにもまた違和感を覚える。仏教について何を知っているのだろうか?

ここドイツでは、カトリック、プロテスタントの違いこそあれ、キリスト教徒
として生まれてからすぐ赤子のうちに洗礼を受け、各派の規律の中、
キリスト教理念とともに成長していく。 小学校1年生から授業でも
キリスト教について学び、それが一般常識、道徳となって、
人間形成に大きな影響を与えている。
教会離れが進んでいるとはいえ、国、教会、人々 が密接に結びついている。

それはそれで、素晴らしい事だとは思うが、
そんな中に長年いるとだんだんと何の疑いももたない子供のうちから
植え付けられる宗教教育、思想教育に疑問さえ感じるようになり、
どんなに盛大にクリスマスをお祝いしても、聖書に目をとおしても、
キリスト教徒でない私は、まわりにあわせているだけで、何も
心が動かない事に気がつき、異和感を感じるようになってきた。
そして、かえって最近、自分が生まれ育った日本の宗教感が
とてもなつかしくなっている。
日本の寺社に出向く事に心落ち着き安心感を覚え、
お墓参りも帰国した際にはなるべく出かけ、お寺にむかい、
墓石の前で手をあわせると、本当に心安らぐ自分がいる。

死生観も全く異る。こちらには輪廻転生という発想がないので、
亡くなった方は亡くなったらそれで終り。
〈生まれ変わったら、、〉とか、〈前世は、、〉とか、〈魂は生きていて
親しい肉親が守護霊様となって自分を守ってくれる〉とか、、
そんな発想が全くなく、ありえない、、と否定される。
故人の霊が現れて眠れないと訴える妻を、気が狂ったため一緒に暮らせないと
離婚原因となった例さえもある。
こちらのお墓も常にきちんと色とりどリの花で綺麗に手入れさえ、
何かの節目にはろうそくをともし故人を偲びにお墓へ訪れる人も多い。
でも日本のように、墓石に話しかけたり、
故人の好きだった食べ物や飲物をお供えすることもない。
話しても聞こえない、供えても食べられないのだから、、という
発想なのかもしれない。
そんなことが、そんな死生観の違いが最近とっても淋しく感じる。

そう日本には独自の宗教心がある。
日本人は知らず知らずのうちに神道や仏教の習わしの中に密着し
て生活しており、仏教、神教の心を生活で感じ、教わる。
それが立派な宗教感だ言えると思う。
日本における「神」は至る所にいて、様々な役割を持っている。
それが生活の人生の指針となり大きな影響を与えている。
特別な団体に所属しなくても、大変な戎律を守らなくても、
いつでも受け入れてくれる寺社がここにある、
そんな垣根のない 日本独自の寛容な宗教感や思想、生活スタイルを認め、
誇りを持つべきだと最近つくづく思う。
そんな寛容さが残る国は、日本も含めて小数でありとても貴重だと思うから。

こちらではキリスト教の祝日、イースター(復活祭)がもうまもなく来週 4/14より始まる。人間の罪を背負って十字架にかけられたイエスが、復活、再生する日への
お祭りで、毎年日が変わるが、3月から4月に巡ってくる。
日本ではあまり知られていないかもしれないが、まさに春を象徴するお祭りで、クリスマスと同様、キリスト教徒にとっては重要なまちどおしい祝日である。シンボルは、生まれるというシンボルの卵と、多産の象徴であるうさぎ。
カラフルな卵とうさぎがが、玄関先、庭先に飾られる。

そんな光景の中にいても、私の心には、昨年見た神社の境内での桜が
はっきりと思い浮かび、卵やうさぎに変わり、春の訪れと喜びを伝えてくれる。
そして ふっと自国の宗教感について考え
あらためて、誇りと自信を感じるのである。
世界に向けてそんな日本独自のおだやかで優しい宗教感を
どうどうと伝えられるようになりたい、、と願うこのごろである。


続きがあります